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鈴木明子さま 鈴木明子さま(プロフィギュアスケーター、慶應義塾大学システムデザイン・マネジメント研究所研究員) 「困難を乗り越えて〜だからこそ伝えられること〜」

愛知県豊橋市出身。東北福祉大学卒業。
6歳からスケートをはじめ、15歳で全日本選手権4位となり注目を集める。10代後半は体調を崩し、大会に出られない時期もあったが、2004年に見事復帰。2006-2007ユニバーシアード冬季大会で優勝。 2009-2010グランプリシリーズ(中国)初優勝。世界のトップ選手の仲間入りを果たす。同年グランプリファイナルでは3位、全日本選手権では2位となり、念願のバンクーバーオリンピック代表で8位入賞。2012世界選手権では、銅メダルを獲得。同年の世界国別対抗戦では、日本チームを引っ張り優勝。ソチオリンピック代表選考を兼ねた2013-2014全日本選手権では、会心の演技で13回目にして初優勝。ソチオリンピックでは初めて正式種目となった団体では、日本のキャプテンとして出場(5位)。個人戦では、オリンピック2大会連続の8位入賞を果たした。著書に「ひとつひとつ。少しずつ。」

完璧主義ゆえの「制限の加速」

講演風景写真

 今回は私がフィギュアスケートのアスリートとして食の大切さを感じたこと、そして摂食障害の経験で食に対する意識が変わったことをお話させていただきたいと思います。
 私は6歳からフィギュアスケートの世界に入り、その流れのまま選手になってキャリアを積んできました。ただ、女性は成長過程でどうしても10代の頃、体に丸みを帯びてきます。でもフィギュアはジャンプを跳ぶので、胸やお尻が大きいと回転の邪魔になるし体重が増えると足への負担も大きくなる。だから食事に注意するよう言われます。今でこそ全日本強化合宿では栄養士さんの指導を受けるようになりましたが、それまでは自己流でやっていました。
 私は家が日本料理屋をやっていたので和食で育ち、母も常にヘルシーな食事を心がけてくれました。おかげで中学・高校時代も周りからは体型を維持していて偉いと褒められることが多くありました。でも実はすごいプレッシャーで「常に細くあらねば」と思い込んでしまった。それがすでに摂食障害の始まりだったのかもしれません。
 私が食事制限をエスカレートさせていったのは、長久保コーチに師事を仰ぐため仙台の東北福祉大学に入学してからです。初めての一人暮らしで全てにおいて「ちゃんとしなければいけない」、食事も「きちんと栄養管理して体型を保たないといけない」と思いました。正しい栄養知識がないまま母の料理を参考に、自分に厳しい食事制限を課してしまったのです。「油は悪」「肉は悪」そんな程度の知識だけで太りそうなものを次々に排除していきました。
 体重が減るとジャンプもすごく軽く感じる。もっと痩せたらもっと軽くなる…間違ったスパイラルの歯止めが利かなくなって、気が付くと「お腹がすくから食べる」という当たり前の感覚がなくなっていました。何を食べたらいいかわからない。ついには食事に拒否反応が起こるようになり、フィギュアスケートの練習どころか日常生活もできない状態になっていました。

食べたいのに食べられない…親子で葛藤した摂食障害の日々

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 変化に気づいた大学のスケート部長のすすめで、私は実家に帰り地元の病院で診察を受けました。結果は「摂食障害の拒食症」。でも、私は受け入れられません。なぜなら「自分で痩せようと思って痩せたから」。病気と認めないので薬もほとんど飲めませんでした。
 48キロから3カ月で32キロまで急激に痩せ体力は衰え、朝起きても昼には横になる状態。疲れて眠ろうとしてもその体力もない…。精神的にも危険な状態でした。体脂肪がほぼない状態なので夏でも寒いのです。体が何とか体温を守ろうとして胴体に産毛が生えているのを見つけたときは、人間の生命力の凄さを感じました。
 そんな入院寸前の状態でも、私はスケートに戻ることを諦められませんでした。病院の先生は「この子は大丈夫か」という感じでしたが、フィギュアスケーターは競技人生が短い。「入院したらもう戻れない」と思ったのです。
 そんな私を見て母がついに折れました。「病院に聞かずに自分で治そう。そしてこの子が選んだ道を信じてあげよう、この子を失うかもしれないけど」と覚悟したそうです。
 それから母は今まで「食べなさい」と強要するのをやめ、「食べてくれさえすればいい」という感じになりました。母が私の病気を受け入れてくれたことで、私の気持ちも変わりました。ようやく病気と向き合い治そうと思えたのです。この母の変化が回復の一番のきっかけだったと思います。
 それから私は地元の病院に行っていません。ただ、これはあくまで私の事例です。ちゃんと病院の先生にきちんとお話することが大事だと思います。

子どもの頃と同じトレーニングを再履修する学び

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 「もう一度スケートがしたい」。私は36キロぐらいまで体重が戻り普通の生活ができるようになった頃、仙台に戻りました。
 そんな私に長久保コーチからはとりあえず40キロになること、リハビリから始めること、体の検査をすること、そして栄養士の方に今の食事状態を見てもらいきちんと学ぶことを指示されました。
 調べた結果、私は幸いにも骨はしっかりしていたので、タンパク質を摂り筋力をつけるのが課題となりました。良質な筋肉をつくる上で動物性タンパク質は大切なのに、私は肉にどうしても拒否反応が出て3年間も食べられなかったのです。食べられるようになったのは病気のことを知っている友人の家に泊まりに行った時、応援の意味を込めて出してくれたお肉を少し食べたことがきっかけでした。私の体調のタイミングと合ったんですね。
 ただ、体重は45キロ過ぎに戻っても筋肉の質が変わっていました。例えば1年前までは3回転を飛べていたのに転んでしまう。そんな現実に、逆に「ここからがほんとのスタートなんだ」と覚悟ができました。6歳からやってきたことを19歳でまた一から始めることで「なぜこのトレーニングが必要で、これがどうつながるのか」が深く理解できるようになったのです。子どもの頃できるようになった喜びを再履修しながら再び味わえる、そんな貴重な経験でした。
 数字に捉われるのもやめました。年に一度のアスリートチェック以外は、ここ5年くらい体重を測らず現役を過ごしました。無性に「オレンジジュースを飲みたい」と思った時はビタミンを欲しているとか、自分の感覚を研ぎ澄ますことを心がけています。

食事は身体だけでなく「心」も作る

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 摂食障害で何が一番悲しいか。人と食事ができないことです。人と人が食事をすることで生まれるコミュニケーションは本当に大切で、食事は人間の体をつくるだけではなく「心」も作っていくものだと思っています。
 そして、情報があふれる今だからこそ、きちんとした自分の物差しを持って管理する事。それがよりよい生き方にもつながってくると思います。子どもには親や周りの大人たちがしっかり基本的な知識を身につけさせることが大切だと思います。
 私はこの経験を話すことで元気とパワーをお伝えできればと思います。私自身も元々弱い人間なので、言うことによって自分が強くなるような気がして「絶対に再発してはいけない」と思えるのです。それが、私が元気でいる原動力になっています。

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