和食の味わいの基盤ともなる出汁(だし)には、心や身体の健やかさを保つ様々な効果があることがわかってきています。だしのうま味や豊かな香りは、高い満足感を引き出すことができる和食のおいしさの要であり、うまく食事に取り入れることで脂質を減らす工夫につながります。また、和食だしの風味は副交感神経活動を亢進しリラックスした気分状態に移行させる効果が示されています。本講演では、こうした和食だしの健康増進効果に関する研究成果を紹介いただくとともに、和食だしの味わい体験を食育に取り入れることで期待される効果やその意義について紹介いただきます。 |
ユネスコ無形文化遺産に登録された和食の根幹を支えているのは「だし」です。私は「だし」の研究をしていますが、現在は和食離れが加速している状態です。食の欧米化など食生活の変化に伴い、生活習慣病や肥満、メタボリックシンドロームなど病気が増加しています。食の問題には、「個食」あるいは「孤食」といった、家族が和洋中それぞれ好きなものを食べている現実もあり、いろいろな問題を抱えています。
私は以前、アメリカに住んでいて「和食は素晴らしい」と身にしみて感じる経験をしました。そんなことから、日本に帰国後は現在の研究課題に取り組むようになったのです。その時、「小学生の好きなおかずランキング」で、上位1から3番目にハンバーグ、カレー、から揚げが入っていたり、帰国後5年ほど経った2011年、「1世帯あたりのパンの消費量が米を抜いた」とのNHKのニュースに衝撃を受けることになりました。和食離れを実感したのです。
お米は私たちが自給できるものですが、米を食べなくなることで食料自給率が低下しています。和食でお米をみんなで食べることが、自給率の割合を上げる一助になるのではと考えています。
日本型食生活に関しては、1975年から80年ほどまでが脂肪と炭水化物、蛋白質とのバランスが最も取れていた時代だと言われています。そこからバブル経済が始まって崩壊後、コンビニ食が進化したり食生活もどんどん変わっていきました。さまざまな選択肢が増え、個人が食べたいものを食べることのできる時代になったのです。
2008年の「農業白書」では、脂肪と炭水化物、蛋白質の三角形のバランスが崩れてきたとの指摘がされています。特に、若年層で脂肪の摂取量が多くなってきました。女性は全体的に脂肪摂取量が多め。人が形成してきた食の嗜好はなかなか変化しないため、日本の若年層が歳を取れば一気に和食に傾くとは思いません。
日本では糖尿病も増加しています。1960年代から2012年までの統計で、1960からの50年間で10倍以上、糖尿病やその予備軍の患者数は急激に増加しています。もともと、日本人を含めたアジア人は遺伝的にインスリンの分泌量が少ない傾向にあり、欧米人のように摂取した脂肪を体内に貯め込むことができません。そのため、摂取された過剰な脂肪はパワーを生み出す方向に向かずに糖尿病やメタボリックシンドロームを引き起こしてしまうのです。脂肪摂取率が高まったことで、そうした病気の爆発的な増加を促していると考えられています。
それでも、やはり油はおいしいもの。カロリー過多だと言われようと砂糖もおいしい。私たちの身体は、飢餓に陥った場合を想定しカロリーを体内に貯め込みエネルギーを生み出すような仕組みになっています。油分や糖分が含まれる食べ物を食べることでドーパミンが分泌され、「もっと食べたい」と考えるのは自然なこと。動物としての本能には抗えないのです。
和食は低脂肪かつ、高蛋白の食事です。油分や糖分は少なめですが、それらに代わる満足感を和食に持たせているのが和食の「だし」です。かつおと昆布、椎茸や煮干しなど、和食の根幹となる「だし」には高い満足感を引き出す作用があることが動物実験で分かっています。さらには、「だし」で副交感神経が刺激されリラックスできる状態になることがヒトでも証明されています。「だし」は「うま味」にフォーカスされがちですが、「香り」をいかに効果的に使うかが食育の一つのポイントになると考えています。
アメリカでは離乳食にリンゴをすりつぶしてシナモンを入れますが、私の子どもも、その経験からそれらの香りを嗅ぐと「おいしそう!」と申します。このことからも、普段から子どもたちが親と一緒に味わうなどして「だし」に慣れ親しむことが大事なのです。毎日、丁寧に「だし」を取る必要はありません。粉末だしに、追いだしのような形でカツオパックを加えるだけで、香りが引き立ちます。子どもの頃から「だし」の香りを大切にし、その味を「おいしい」と教え込むような食育が必要ではないでしょうか。
京都の大学では、大学と日本料理アカデミーがタッグを組み、大学生にだしを経験してもらうという食育イベントを行っています。料亭に参加していただき、実際に「だし」を引いて昆布とかつおのあわせただしを用意していただき試食を行います。このイベントは、日本の学生だけでなく留学生にも好評です。このように、食育は大学生など成人後から行っても、潜在意識に埋もれた思い出が顕著化し、ブースター効果(追加免疫効果)によって「だし」のおいしさを改めて実感できる作用があると感じます。これからの食育は、栄養素から一段進んで、「味わい」を教えることが大事なのです。
『美味しさの脳科学』の著者であるゴードン・M・シェファード先生は、「愛国心は母国の食べ物を恋い焦がれることなり」との印象的な言葉を述べています。母国に対する絶ちがたい想いの根源にあるのは、幼い頃から食べて育った食物の風味。まさに、「味わい」を教えていくことは和食の「だし」をベースに、私たちの培ってきた日本の食文化を教えていくことでもあると思います。
言葉よりも何よりも食べ物は、人のアンデンティティを決定していく重要な要素。そうした視点が、「食育」を考える一つのポイントになれば幸いです。